シュトラールズント歴史地区とヴィスマール歴史地区
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成り立ち
ヴィスマールとシュトラールズントは、12世紀末から13世紀初めにかけて、ドイツ人がスラヴ人の土地へ移り住む動きのなかで、よい錨地のある場所に築かれた。記録に初めて現れるのはヴィスマールが1229年、シュトラールズントが1234年で、両市はリューベック法による都市法を得て市壁を築いた。1293年、両市はリューベック、ロストック、グライフスヴァルトとともにハンザ同盟に加わった。
シュトラールズントは1316年の戦争で頭角を現し、ポメラニアで最も力のある都市となった。1370年3月24日、ハンザとオランダの諸都市からなるケルン同盟とデンマーク王国との間でシュトラールズントの和約が結ばれ、ハンザの力はヨーロッパ規模に強まった。1330年から1380年にかけての建設ブームは「ズンディッシェ・ゴティク」と呼ばれる独自のれんが造りゴシックを生み、市庁舎は南バルト一帯の市庁舎に影響を与えた。
三十年戦争(1618〜48年)のあと、両市はスウェーデンの支配下に入り、ヴィスマールの侯館にはスウェーデンのドイツ領全体の最高裁判所である王立裁判所が置かれた。シュトラールズントはスウェーデン領西ポメラニアの政治の中心となり、ヴィスマールがスウェーデンとの結びつきを最終的に失ったのは1903年である。両市の旧市街は第二次世界大戦の空襲を生き延び、2002年に世界遺産に登録された。
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