写真: 「Archaeological Site of Panamá Viejo and Historic District of Panamá-111606」Jim Williams / CC BY-SA 3.0 igo / Wikimedia Commons · トリミングあり
パナマの植民地時代の地峡横断道路
The Colonial Transisthmian Route of Panamá
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時間の物差し
前3000年起点 1519年現在
成り立ち
16世紀以降、パナマ地峡はスペイン本国とアメリカ大陸の植民地、フィリピン、カナリア諸島を結ぶ人と物の通り道となった。1519年8月15日、ペドロ・アリアス・ダビラが太平洋岸にパナマ市を築き、ほぼ同時に大西洋側のノンブレ・デ・ディオスへ向かう石畳の道カミノ・レアルが造られた。ペルーから届いた金銀はラバの背でこの道を運ばれ、年に100〜200tの銀が地峡を越えたとされる。
1530年頃にはもう一つの道カミノ・デ・クルセスが開かれた。パナマ市からチャグレス川沿いのベンタ・デ・クルセスまで陸路で進み、そこから舟で川を下って河口のサン・ロレンソ要塞に出る道である。1597年には港がポルトベロに移され、カミノ・レアルの行き先も変わった。1671年にパナマ市が略奪され焼けると、町は数km西に再建され、道もそちらへ付け替えられた。
1739年のポルトベロ陥落の後、地峡越えの道は衰え、1855年にパナマ鉄道が開通すると使われなくなった。世界遺産は、パナマ市、ポルトベロとサン・ロレンソの要塞、2つの道の区間など6つの部分からなる。
データ:Wikidata(CC0)。写真:Wikimedia Commons(各写真のライセンスに従う)。試作版のため、誤りを含む可能性があります。改善のため、利用状況を匿名で計測しています(PostHog・EU)。