写真: 「055 Palenque Pakal Maji (29)」Ljuba brank at Slovenian Wikipedia / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons · トリミングあり
パレンケ
Palenque
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時間の物差し
前3000年起点 500年現在
成り立ち
パレンケはマヤの都市遺跡で、古くはラカムハ(「大きな水」)と呼ばれた。紀元前後に始まった町は500年ごろに地域の強力な都となり、500〜700年に最盛期を迎えた。615〜683年に在位したキニチ・ハナーブ・パカルの死後は、子のキニチ・カン・バフラム2世が684〜702年に王位にあり、父の事業を引き継いだ。
町は9世紀ごろに放棄され、神殿と宮殿は密林に覆われた。スペイン人は1773年と1784年に遺跡を調べ、1786年にはアントニオ・デル・リオの調査隊が来た。19世紀にはヴァルデック、スティーヴンズとキャザウッド、シャルネ、モーズレイが訪れて記録を残した。
1949〜1952年に碑文の神殿を発掘したアルベルト・ルス・ルイリエは、1952年に石板を取り除いて通路を見つけ、パカルの墓に達した。1994年には第13神殿で「赤の女王」の墓が見つかった。記録された建物は1400にのぼるが、調べられたのは約1割にとどまる。遺跡は1987年に世界遺産に登録された。
データ:Wikidata(CC0)。写真:Wikimedia Commons(各写真のライセンスに従う)。試作版のため、誤りを含む可能性があります。改善のため、利用状況を匿名で計測しています(PostHog・EU)。