サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群
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成り立ち
ネヴァ川の河口には1611年にスウェーデン人が築いたニエンスカンス要塞があった。大北方戦争中の1703年5月、ピョートル1世はこれを奪い、同月27日に近くのザーヤチ島でペトロパヴロフスク要塞の建設を始めた。これが町で最初の煉瓦と石の建物である。町はロシア各地から徴用された農奴が築き、年によってはスウェーデン人捕虜も働かされ、数万人の農奴が命を落とした。
ピョートルは1712年に都をモスクワからここへ移した。1716年までにスイス系イタリア人ドメニコ・トレッツィーニがワシリエフスキー島に運河の碁盤目を置く計画を立て、同年フランス人ジャン=バティスト・ル・ブロンが首席建築家に任じられた。バロック建築はバルトロメオ・ラストレッリの冬宮などで頂点を迎え、1760年代からは新古典主義に移った。
第一次世界大戦が始まった1914年に町はペトログラードと改名された。1918年に政府がモスクワへ移り、1924年にレニングラードとなった。1941年から1944年まで872日間ドイツ軍に包囲され、100万人以上の市民が亡くなった。1990年に世界遺産に登録され、1991年にもとの名に戻った。
ここに来た旅人
- 1873-03
3月末の夜にワルシャワ駅に着き、冬宮近くのホテルに入った。4月3日に皇帝アレクサンドル2世に謁見し、9日には冬宮で皇帝主催の午餐会に招かれたが、久米はこれを『回覧実記』に書かなかった。
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