スオメンリンナの要塞
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成り立ち
18世紀、スウェーデンは力を増すロシア海軍に向き合っていた。ピョートル大帝は1703年にサンクトペテルブルクを建て、その手前にクロンシュタットの海軍基地を築いた。1741〜1743年のロシア・スウェーデン戦争の後、スウェーデン議会は1747年、国境の要塞化と、クロンシュタットに対抗するヘルシングフォシュ(今のヘルシンキ)の海軍基地建設を決めた。責任者はアウグスティン・エーレンスヴァルドで、1748年1月、町の沖の島々で工事が始まった。
要塞はスヴェアボリ(スウェーデンの城)と呼ばれ、稜堡式の星形要塞の考え方を岩の島々に合わせて取り入れ、中心に海軍造船所を置いた。1750年には6000人以上、1755年には7000人が働いたが、そのころのヘルシングフォシュの人口は約2000人だった。1808年のフィンランド戦争でロシア軍に包囲され、5月、司令官カール・オーロフ・クロンステットは約7000人の兵とともに降伏した。1809年、スウェーデンはフィンランドを割譲し、フィンランドはロシア帝国の中の大公国となった。
ロシアは兵舎を増やし、造船所を広げ、防壁を強化した。1917年にフィンランドが独立を宣言した後、1918年5月12日に要塞はスオメンリンナ(フィンランドの城)と改名された。1918〜1919年には捕虜収容所が置かれ、約1万人の赤衛隊捕虜のうち1000人以上が飢えと病気で死んだ。1973年に島の大部分が民間の管理に移り、1991年に世界遺産に登録された今も、約850人が暮らしている。
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