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カゼルタの18世紀の王宮と公園、ヴァンヴィテッリの水道橋とサン・レウチョの邸宅群
写真: Carsten Steger / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons · トリミングあり

カゼルタの18世紀の王宮と公園、ヴァンヴィテッリの水道橋とサン・レウチョの邸宅群

18th-Century Royal Palace at Caserta with the Park, the Aqueduct of Vanvitelli, and the San Leucio Complex
WHC 5491997年登録41.07°N 14.33°EWikipedia 54言語

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時間の物差し
前3000年起点 1752年現在

成り立ち

ブルボン家のナポリ王カルロは、混み合って反乱の起きやすい首都ナポリを離れ、海からの攻撃も受けにくい場所に新しい宮廷と政府を置こうとした。ナポリの北35kmのカゼルタに王宮を建てる案は1750年に出され、1752年、建築家ルイジ・ヴァンヴィテッリのもとでヴェルサイユを手本に工事が始まり、働き手を近くに確保するためカゼルタ・ヴェッキアの住民は10km移された。王宮は247m×190mの長方形で、5階建て、約1200室、4つの中庭をもつ。ヴァンヴィテッリは1773年に亡くなり、息子カルロが工事を続けた。

噴水の水を運ぶ全長38kmのカロリーノ水道橋は、1753年3月に着工し、1762年5月7日に開通した。ほとんどが地下を通るが、マッダローニの谷を渡る区間は凝灰岩の3層のアーチで、長さ529m、高さは最大55.8mある。サン・レウチョでは、カルロ王の息子フェルディナンド4世が王家の狩りの館を絹織物工場に変え、職人に住まいや学校、医療を用意した。1789年には「絹織物職人の王立コロニー」とされたが、フェルディナンドポリという都市に広げる計画は1799年のフランス軍の侵攻で止まった。

1943年9月の空襲で王宮は被弾し、宮廷礼拝堂の絵画はほぼすべて失われた。同じ1943年から王宮は地中海方面の連合軍最高司令官の司令部となり、1945年4月29日にはイタリアのドイツ軍の降伏文書がここで調印された。王宮と庭園、水道橋、サン・レウチョは1997年にまとめて世界遺産に登録された。

ここに来た旅人

  1. 1787-03

    古い城館に住む画家ハッケルトを訪ね、新しい王宮を王にふさわしいが陰気だと書き、水道橋が山から川を丸ごと引いてくる庭園を見た。

  2. 1873-05

    ローマから早朝に着き、ヴァンヴィテッリが設計した王宮を訪れた。並木道から見ると王宮の玄関が庭園の奥の滝を額縁のように囲む眺めに、一行は感心した。

データ:Wikidata(CC0)。写真:Wikimedia Commons(各写真のライセンスに従う)。試作版のため、誤りを含む可能性があります。改善のため、利用状況を匿名で計測しています(PostHog・EU)。