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フィレンツェ歴史地区
写真: 「Ponte Vecchio 001」Amada44 / CC BY 3.0 / Wikimedia Commons · トリミングあり

フィレンツェ歴史地区

Historic Centre of Florence
定番WHC 1741982年登録43.77°N 11.26°EWikipedia 71言語

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時間の物差し
前3000年起点 前59年現在

成り立ち

フィレンツェはエトルリア人の集落の上に、前59年、退役兵のためのローマ植民市フロレンティアとして軍営の形に町割りされた。1115年から1532年まではフィレンツェ共和国の時代だった。1325年ごろには人口が12万に達したとみられるが、1348年の黒死病で半分以上を失った。

15〜16世紀、メディチ家のもとでフィレンツェはルネサンスの中心となった。大聖堂サンタ・マリア・デル・フィオーレはブルネレスキの設計した円蓋で1436年までに構造が完成し、ジョット、ドナテッロ、マザッチョ、ボッティチェッリ、レオナルド、ミケランジェロがこの町で仕事をした。1569年にコジモ1世がトスカーナ大公となり、メディチ家の支配は1737年まで続いた。

1865年から1871年までフィレンツェはイタリア王国の首都だった。1944年8月、撤退するドイツ軍はアルノ川の橋をポンテ・ヴェッキオを除いてすべて爆破した。1966年11月4日にはアルノ川が氾濫して約1万4000点の美術品と300万〜400万冊の本や写本が被害を受けた。14世紀の城壁跡に囲まれた505haの歴史地区は、1982年に世界遺産に登録された。

ここに来た旅人

  1. 1786-10

    ローマを急ぐあまり、大聖堂と洗礼堂を足早に見て回り、ボーボリ庭園にも入ったがすぐに出た。

  2. 1840-12

    インスブルック、ブレンナー峠、ヴェローナ、ボローニャを経て12月12日から13日に着いた。『詩人のバザール』に収めた「青銅のいのしし」は、市場の前に立ち、水を飲む人々に鼻先を磨かれたこの町の青銅のいのししの泉から始まる。

  3. 1867-07

    サンタ・クローチェ教会でガリレオの墓とダンテの墓を見た。ある晩9時に細い路地で道に迷い、明け方3時近くまで歩き回ったと旅行記に書いている。

  4. 1873-05

    ブレンナー峠を越えて夜中に到着し、駐日公使フェ・ドスティアーニの出迎えを受けた。久米は大聖堂の大きさを詳しく書き、ウフィツィ美術館では作品を模写する人の多さに驚いた。

データ:Wikidata(CC0)。写真:Wikimedia Commons(各写真のライセンスに従う)。試作版のため、誤りを含む可能性があります。改善のため、利用状況を匿名で計測しています(PostHog・EU)。