ポンペイ、ヘルクラネウム及びトッレ・アンヌンツィアータの遺跡地域
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成り立ち
ポンペイの地にはまずオスク人が5つの村をつくり、前6世紀初めにひとつの共同体となって凝灰岩の城壁で囲まれた。前424年ごろサムニウム人に支配され、前89年にスッラに包囲されて降伏し、ローマの植民市となった。62年2月5日には地震で大きな被害を受けた。
79年のヴェスヴィオ山の噴火で、ポンペイは最大6mの火山灰と軽石に、ヘルクラネウムは火砕サージと火砕流にのみこまれた。ポンペイでは約1150体の遺体が見つかり、ヘルクラネウムの古代の浜辺と船小屋からは数百体の人骨が出た。ヘルクラネウム郊外のパピルス荘からは1800巻を超えるパピルスの巻物が見つかっている。
ヘルクラネウムでは1738年、ポンペイでは1748年に本格的な発掘が始まり、1763年に碑文でポンペイの名が確かめられた。1863年に発掘責任者となったジュゼッペ・フィオレッリは、遺体が残した空洞に石膏を流しこんで型をとる方法を始めた。トッレ・アンヌンツィアータの2つの別荘とあわせ、1997年に世界遺産に登録された。
ここに来た旅人
- 1787-03
ティッシュバインと訪れ、まっすぐだが狭い街路と窓のない小さな家々に驚き、公共建築まで模型か人形の家のようだと書いた。
- 1841-03
3月8日、ナポリから足をのばして遺跡を訪れた。
- 1873-05
ナポリから遺跡を訪れ、古代ローマの道がすでに馬車と歩行者の通る部分に分かれていたことに驚いた。帰りにはエルコラーノの発掘地にも寄った。
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